11月に夫婦では40年ぶりにヨーロッパ各地の日本語教会を訪ねてきました。(念のため、日本人ではなく、日本語の教会です)。
教会には現地の方や多国籍の方が集っています。また、国際結婚をしている奥様方が集っています。40年前は中心的なメンバーが、留学生や日本企業の駐在員でしたが、今は、現地で長らく生活しておられる方が中心です。
ある牧師が、同じ日本人でも、欧州で生活しておられる方は、はっきりと自己主張をする方が多いので、日本にある教会よりもまとまるのが難しいという趣旨のことを言っておられたのが印象的でした。
各日本語教会に集う現地の方や多国籍の方は、日本の文化に魅力を感じていたり、また同時に、異教社会の日本で明確な信仰告白に導かれている人々の交わりということに魅力を感じるのかと思います。
まさに欧州の日本語教会は、日本文化の美しさを示しながら、同時に、日本の同調圧力に屈しない方々の集まりとも言えましょう。そこでは現地の文化を心から尊敬しながら、同時に日本の美しさを保つという、文化の懸け橋的な共同体が築かれているように感じました。
そして、日本人としての葛藤を味わいながら、聖書の福音を説き明かすという僕の働きもとっても感謝していただけたように思っています。
これを機会に、欧州各地に日本語教会を霊的に応援する働きも広げて行きたいと思っています。
すでに当教会のホームページに対するアクセスは世界百か国近くからなされております。体力的に渡欧は困難になってきていますが、インターネットを通して交わりを広げ続けたいと願っています。
詩篇99篇には共同体としての教会の働きが示唆されています。
詩篇99篇「聖なる主のご支配」
初めのことばは、93篇、97篇と同じで、「主 (ヤハウェ) は(王として)治めておられる」と動詞として訳すのが原文に忠実です。一方、96–98篇では、主のご支配が目に見えるように現わされる希望が歌われていましたが、ここでは主の何の「みわざ」にも言及されることなく、「国々の民は恐れおののけ」と命じられます。
そして主が「ケルビムの上に座しておられる」超越的な方であることが描かれながら、同時にこの地にあっては、「主 (ヤハウェ) はシオンにおられる 大いなる方。主は すべての国々の民の上に高くいます」(2節) と、主がエルサレムから全世界を治めておられるということが強調されています。
そのことがさらに、「王は力をもって さばきを愛する」(4節) とあるように、神が立てたエルサレムの王が、全世界の王たちの王として、世界を治めるということを意図しているとも考えられます。
多くの人々は、主 (ヤハウェ) の超自然的なみわざが見られることに憧れますが、日々の現実の中では、主のご支配は、主のみことばに誠実に耳を傾け、それを実行する人を通して現わされています。
キリストはすでに王として世界を治めておられますが、そのご支配は、キリストのからだである「教会(エクレシア)」という共同体の働きとして現わされています。たとえば、現在の様々な福祉や医療、教育制度も、また基本的人権の尊重などという基本理念も、すべて歴史的にはキリスト教会の働きから派生してきているものです。
そして8節では、主がご自身の民を導く原則が、民の祈りに「答えられ」、過ちを「赦し」また「悪しきわざに報復される」という日々の導きが記されます。
またこの詩篇では、「主は聖なる方」と三度繰り返されますが(3、5、9節)、聖書に描かれた物語の不思議は、汚れた民を超越した「聖なる」神が、汚れた民の真ん中に住むために、神の幕屋を作らせ、またエルサレム神殿を建てさせたということです。
つまり、「主は聖なる方」という表現には、問題行動ばかりを繰り返す汚れた民のただなかに住みながら、「あなたがたは聖なる者でなければならない、あなたがたの神、主 (ヤハウェ) であるわたしが聖だからである」(レビ19:1) と語りかけてくださる、神の圧倒的な愛を見ることができます。
主 (ヤハウェ) を私たちのただ中に住んでくださる「聖なる方」として「あがめ」、その方の御前に「ひれ伏す」者たちを通して、主はご自身こそが全世界の王であることを現わしてくださいます。
私たちは「王」なるキリストの「みからだ」である教会の一部として、「地の塩」「世の光」として、不条理と闇が支配する世界に遣わされて行くのです。
【祈り】主 (ヤハウェ) が、全地の王として、すでにこの世界を治めておられると聞き、感謝します。私たちは自分の小ささ、無力さ、また罪深さに唖然とさせられることがありますが、主が私たちを通してご自身の支配を現わしてくださることにこの身を委ねます。

